先生&生徒のつぶやき
藤原先生のつぶやき
2024.10.07
利他的偉人伝③「西郷隆盛~天を敬い人を愛した薩摩隼人~」
執筆者:教諭 藤原 彰将
利他的偉人伝、第三回は内村鑑三の著書『代表的日本人』にも選出されている、西郷隆盛を紹介します。
西郷隆盛といえば、明治維新の立役者として、歴史上の偉人の中でも非常に人気のある人物です。
1828年、薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれた西郷は、幕末という激動の時代に、改革を目指す志士たちと共に新しい日本を作るため奔走しました。
特に、薩摩藩と長州藩が協力して幕府に対抗する薩長同盟の締結や、大政奉還後の江戸城無血開城といった歴史的な出来事において、西郷隆盛の名前は必ず挙がります。
英雄的な活躍の一方で、彼には反政府思想を持つ薩摩士族のリーダーとして、明治政府軍と対立した「逆賊」としての側面もあります。
では、そんな多面的な顔を持つ西郷隆盛とは、どのような人物だったのでしょうか?
1868年、徳川幕府体制が崩壊し、明治新政府が樹立されると、西郷は新政府で重要な役職を務めました。
しかし、朝鮮との国交樹立を巡る問題で他の政府メンバーと対立し、数年で政府を去ります。
その後、西郷は地元鹿児島に戻り、私学校を設立して志ある若者を育て、日本の未来を担う人材の育成に力を注ぎました。
しかし、予期せぬ事態が西郷を待ち受けます。
政府に不満を抱いていた西郷の教え子たちが、政府の武器庫を襲撃する事件を引き起こしてしまったのです。
この事件をきっかけに、1877年、西郷を指揮官とする反政府軍と明治政府軍の間で西南戦争が勃発しました。
緒戦では善戦したものの、次第に薩摩士族軍は劣勢に追い込まれ、最終的には鹿児島県城山に追い詰められます。
政府軍の攻撃が激化する中、西郷は腹部に銃撃を受け、重傷を負いました。
瀕死の西郷は、自身の腹心である別府晋介に「晋どん、もうここらでよか。」と言い、東の方角に深々と頭を下げました。
その言葉に全てを悟った別府は、「ごめんなったもんし!」(申し訳ありません)と叫びながら、西郷の首を刎ねたと言われています。
享年51歳(満49歳)、壮絶な最期でした。
波乱万丈の人生を送った西郷隆盛。
その人生の根底には、一体何があったのでしょうか?
新しい日本を作るため、犬猿の仲であった長州藩と手を取り合い、江戸市民の生活を守るために江戸城無血開城を実現し、日本を守るために朝鮮との国交樹立を推進し、国の未来を思って私学校を設立しました。
さらには、教え子たちのために旧友と敵対し、命を落とすに至った西郷隆盛の生涯。
歴史的な事象だけを見れば、西郷隆盛は明治維新の英雄であり、政府を裏切った反逆者とも捉えられます。
しかし、彼の行動を見ると、それはすべて自分のためではなく、誰かや何かのためだったことが強く感じられます。
事象だけにとらわれるのではなく、「なぜ」「どのような思いで」先人たちは行動したのか。
この視点は、歴史を学ぶ上でとても重要な要素です。
西郷は「児孫のために美田を買わず」という言葉を残しています。
これは、自らが財産を残すと、子や孫がその恩恵に甘え、努力を怠るため、無闇に財産を残すべきではない、という意味です。
自らの利益や損得に振り回されることなく、信念を貫き続けた西郷の生き方こそ、我々日本人の在るべき姿を示しているのではないでしょうか。
2023.07.26
利他的偉人伝②「乃木希典~聖将と呼ばれた男~」
執筆者:教諭 藤原 彰将
香川県善通寺市には陸上自衛隊の駐屯地があり、その敷地内に「乃木館」という記念館が併設されています。
乃木とは、明治期の軍人 乃木希典将軍のことです。
生徒の皆にとっては乃木坂46の乃木坂という地名の由来になった人といった方が「へぇ~」と思うかもしれません。
今回は、そんな乃木将軍にまつわるエピソードを紹介します。
乃木希典将軍は、54歳の時に日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執ることになりました。
遡ること10年前の日清戦争で旅順要塞を僅か1日で陥落させた実績を買われての抜擢でした。
しかし、ロシア軍が防備を固めた旅順要塞は、事前の情報を遥かに超えた強固な大要塞と化していました。
戦場入りしてからというもの、乃木将軍はほとんど眠ることもなく、食事も将官用の御馳走ではなく一般兵と同じものを食べ、皆と苦痛を分かち合いながら戦い続けました。
攻撃を仕掛ける度にロシア軍の集中砲火を浴び、大量の犠牲者を出しながらも、半年の激闘の末ようやく旅順要塞を陥落させることに成功します。
旅順陥落後、各国のメディアは、近代戦において有色人種が白人を倒した歴史上類を見ないこの戦いの結末を写真に収めようと、乃木将軍に対して撮影の要望を出しますが、乃木将軍は「ロシアの将軍に恥をかかせたくない」と拒否しました。
それでもと食い下がるメディアに対し、条件を出したうえで許可したのが次の写真です。
この写真を見て、どちらが勝者でどちらが敗者かがわかりますか?
慣例上、敗軍の将は帯刀を認められないのが世界の常識でした。
しかし、乃木将軍は「勝者とはいえ敗者の尊厳を踏みにじることは許されない」と考え、敢えて皆が同列として写った写真を報道陣に使わせました。<
この出来事は「水師営の会見」と呼ばれ、様々な国で乃木将軍の誠実な人柄が知られるきっかけになりました。
その後、敵将ステッセルはロシアで敗戦責任を追及され死刑を宣告されますが、それを知った乃木将軍はすぐにロシアに宛て、ステッセルがいかに愛国心を持って祖国のために勇敢に戦ったかを訴える内容の書簡を送りました。
その結果、ステッセルの処刑は取りやめ、シベリア流刑に減刑となりました。
さらに、遺されたステッセルの家族に対して乃木将軍は自らが亡くなるまで生活費を送り続けました。
多数の死者を出した日露戦争でしたが、乃木将軍もこの戦争の中で二人の息子を亡くしています。
戦後、日露戦争の英雄として、東郷平八郎らと長野県での講演会に呼ばれた際には、登壇を求められても断り、その場に立ったまま「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と一言そう言って涙を流したそうです。
自分自身も家族を失った立場でありながら、それ以上に「自分の指揮で、多くの国民から家族を奪ってしまった」という自責の念を持ち続けていたのです。
戦後、乃木将軍は戦争で傷ついた兵士たちを収容する廃兵院に何度も見舞いに行き、多額の寄付をし、上腕切断者のための義手の設計に協力。
年金を担保として義手の製作・配布を行うなど、傷痍軍人の支援を精力的に行いました。
さて、乃木将軍が現在まで偉大なリーダーとして語り継がれているのは何故でしょうか?
歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は後年、次のように語っています。
「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った。」
弱者を虐げず、他人の悲しみを自分のことのように考え、損得を考えず人として正しい行いに徹する。
そんな乃木希典将軍だからこそ、多くの兵士の心を動かし、大事な局面での戦いに打ち勝つことが出来たのではないかと思います。
そんな乃木将軍の真っ直ぐな生き方は、現代を生きる私たちにも変わることのない大切な事を伝えてくれているように感じます。
2021.09.22
利他的偉人伝①「チェ・ゲバラ~20世紀で最も完璧な人間~」
執筆者:教務課長 藤原 彰将
皆さんは『チェ・ゲバラ』という人を知っていますか?
Tシャツのデザインやサッカーの応援旗にプリントされているのを見たことがある人もいると思います。
しかし、「見たことはあるけど、何をした人かは知らない。」という人も多いのではないでしょうか。
今回はそんなチェ・ゲバラの紹介をしたいと思います。
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ゲバラは裕福な家庭に育ち、医者を目指して大学まで進学します。
そんなゲバラは20代で何度も中南米各国を巡る旅に出ます。
当時、中南米の国々ではアメリカの大企業や政治家が利益を吸い上げ、現地民は貧しい暮らしを強いられていました。
ゲバラは旅の道中、不平等な社会構造を見ていく中で、次第に貧困に苦しむ人々に想いを巡らせていきます。
1955年、27歳の時、ゲバラはメキシコでキューバ人の弁護士に出会います。
キューバ政府打倒を掲げ反乱を起こすも一度失敗し、メキシコに亡命していたフィデル・カストロでした。
ゲバラとカストロは『革命』を合言葉に意気投合し、1956年に一隻のクルーザー『グランマ号』に乗り込み、キューバ政府に戦いを挑みました。
定員12名のクルーザーに82名の革命軍を乗せてキューバに向かった船でしたが、事前に待ち構えていた政府軍の攻撃を受け、革命軍の兵士はたちまち12名にまで減ってしまいます。
それでも、ゲバラとカストロは決して諦めることなく、戦い続けました。
すると革命軍に賛同するキューバ国民が一人、また一人と革命軍に加わり、その規模は数百名にまで膨れ上がっていきました。
圧倒的劣勢だった革命軍が、勢力を拡大できた理由は何だと思いますか?
彼らは戦いの最中であっても、『人として正しい生き方』を徹底的に実行していました。
怪我人は敵兵であっても治療し、物資調達の際は必ずお金を支払い、子供や若者に教育を施し、現地住民で病人がいる場合は無償で薬を提供したのです。
そのような革命軍の姿勢に、人々は次第に信頼を寄せ、革命を成功に導く大きな力になっていきました。
そして1959年、キューバ大統領バティスタが亡命をしたことで革命軍は戦いに勝利します。
革命に成功した後、ゲバラやカストロを中心とする新政権が樹立し、政治が進められていきます。
並みの人間なら「腐敗した政権を倒したんだから、ちょっとくらい美味しい思いしてもいいだろう。」と思うことでしょう。
しかし、彼らは違いました。
教育の無償化、医療の無料化、政府メンバーの給与削減などの政策を次々に行い、自らの損得など少しも顧みなかったのです。
それだけではなく、国立銀行総裁兼工業大臣にまでなったゲバラは、普段から積極的に国民と一緒になって農作業や建設作業に精を出し、汗と泥にまみれて働くことを好みました。
革命に成功し、英雄と呼ばれ、政府の要職にまで就いたゲバラでしたが、その地位もすぐに捨て、再び戦場に舞い戻ります。
最終的にはボリビアでの戦闘中に捕虜となり、銃で撃たれ最期を迎えます。
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このようなゲバラの生き様が「利他的な生き方」なのではないかと思います。
生前、ゲバラは「これからの世界は、自分の利益だけに固執せず社会全体に奉仕する『新しい人間(オンブレ・ヌエボ)』が必要だ」と考えていたそうです。
この考えはまさに、本校の目指す人間像とも繋がるものであるように感じてなりません。
2021.05.27
少数精鋭
執筆者:教務課長 藤原 彰将
皆さんは『少数精鋭』という言葉を聞いたことがありますか?
私の母校の卒業生で、1980年代の行政改革を先頭に立って推し進め、「行革の鬼」と呼ばれていた土光 敏夫(どこう としお)さんという方がおられます。
様々な企業の社長・会長を歴任し、日本経済界の頂点にまで上り詰めた一方で、普段はメザシと菜っ葉を好むという清貧な暮らしぶりから「メザシの土光さん」とも呼ばれ親しまれていた人物です。
そんな土光さんは『少数精鋭』という言葉について次のように語っています。
いかがですか?
皆「できること」と「できないこと」、「得意なこと」と「苦手なこと」があると思います。
それらを全部ひっくるめて、少人数の中で経験値を積むことで、得意分野を更に伸ばし、苦手分野を補えるように成長することこそが、少数精鋭のあるべき姿であり、もとからのエリートを少人数寄せ集めることに意味はない、と土光さんは仰っているわけです。
本校の特色のひとつとして、少人数制クラスの実施というものがあります。
そのような点からも、まさに本校はこの後者の意味の少数精鋭を実現することが出来る学校だと思うのです。
これを読んでいる皆も、今はまだ自分で「精鋭」だと胸を張って言えるような状態ではなかったとしても、この学校で仲間達と切磋琢磨(せっさたくま)して自分を磨き上げ、卒業していくときには立派な『少数精鋭』として羽ばたいていってくれると信じています。
我々教員も、生徒の皆も、少数だからこそ、できることがあるのです。
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